チャイナペインティングにまつわるエピソード
アフタヌーンティーとティーカップ
17世紀ヨーロッパでは、コーヒーやチョコレートを飲ませる“コーヒーハウス”が流行しましたが、女人禁制でした。
同時期にヨーロッパに入ってきたお茶は、体にいい薬効のある飲み物として紹介され注目を集めていました。
当時輸入されたお茶は紅茶ではなくウーロン茶の仲間のボヘア茶が大半であり、それを中国や日本の器あるいは東洋の器を模した“ディッシュ”(取手のない湯のみ茶碗風のもの)で飲んでいました。
1730年代のイギリスで庭園を利用した“ティーガーデン”が登場し、園内の中国風あずま屋で着飾った女性達がお茶を楽しむようになりました。
そして19世紀中期ヴィクトリア朝時代のベッドフォード侯爵夫人アンナ・マリアが友人を招待して自慢の器を披露し歓談しながらティータイムを楽しむようになったものが、“アフタヌーンティー”の起源といわれています。
1730年代からティーカップに取手をつけたものが作られるようになりました。
またソーサーはカップを支えるための台として中国から紹介されましたが、18世紀頃には熱いお茶をソーサーに移しさまして飲む習慣も生まれたそうです。
紅茶文化
英国スタイルのミルクティーは、安価であまり品質のよくないお茶を飲みやすくするために生まれ定番化したもので、上流階級ではキーマンやラプサンスーチョンなど高級プレーンティーが主流でした。
19世紀中期から、インドのアッサムやダージリン等やセイロンにも茶園が開かれ、大量供給されるようになりました。
海のシルクロード(磁器の海上輸送ルート)
漢の時代、絹は中国の特産品でラクダの背に乗せられ中央アジアの険しいシルクロード(絹の道)を越え、遠くローマまで運ばれました。
でも磁器は重くラクダも疲れるし、朝夕にラクダが休む度に割れてしまいます。
シルクロードでの輸送が困難を極めたため、一度に大量の磁器を運ぶ手段として海上ルートが考えられました。
これが、中国から東南アジア・インド・イラン・アラビア半島・紅海・地中海を経てローマに至る“海のシルクロード“です。
船が立ち寄ったベトナムやインドネシアでは日本の染付に似た文様が発展し、現在もその土地の文化として残っているそうです。
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